Who made thee?

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Amazonプライムビデオ

“ある日、アイスランドで暮らす羊飼いの夫婦が羊の出産に立ち会うと、羊ではない“何か”の誕生を目撃する。2人はその存在をアダと名付け育て始めるがー”

映画 The LambAmazon Prime Video で観ました。

(2021年 アイスランド、スウェーデン、ポーランド合作)

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年末から何故かホラー系の映画ばかり観ていると、マジカル·ガールの記事の時に、告白しましたが、

3月に入ってもそれは変わらず、半分はホラー、もしくはホラー要素のある映画ばかり観ています。(それほどホラーともいえないけど)

そしていつも通り、サブスクが薦めてくれる映画の中から、興味があるものを選んでいるのですが、

サブスクの方で的確にオススメ映画を選んでくれるので、映画選びが楽になってました。

今回の ラム もそんな感じで観る機会を得た作品なのですが、

視聴前には全く情報がなく、

タイトルからある程度内容を予想して、選んだ映画でした。

いつもだと予想を越えてくる映画が多いのですが、

今回は予想に沿った展開が続き、それはそれでとても楽しめた作品でした。

そんな映画 ラムについて、視聴前に考えていたのは、

ウィリアム·ブレイクLittle ramb の詩(tiger の詩も)

そしてオカルト好きで、ブラックメタルが好きな ちゅうですから、

邪教っぽい バフォメット を思い浮かべていました。

バフォメット - Wikipedia


昔、カトリック系の大学在籍時に、キリスト教のカリキュラムで、

英国の幻想的な画家であり、詩人、神学者である ウィリアム·ブレイクThe Lamb(子羊) という詩を学んだことがあります。

Little ramb, Little ramb, who made thee?(子羊よ、誰がお前を造ったのか?)

子羊は普通信者のことと思いますが、この詩でいう ラムは キリストのことと言われているようです。

コチラ側は神を信じる側のもので、

子羊から読み取れる優しい穏やかのイメージを感じます。

そして、ウィリアム·ブレイクは、この詩を含む 無垢の歌 という詩集のあとに、

経験の歌 という詩集を発表するのですが、

その経験の歌 の中に 子羊の詩 と対になると言われる The Tyger(虎)という詩があります。 

Tyger, tiger, burning bright, in the forests of the night (夜の森で、明るく燃えている虎よ)

で始まるコチラの虎は 子羊 とは真逆で、

力強い激しい凶暴のイメージです。(タイガースの虎は正義ですが)

神学者としてのウィリアム·ブレイクから見れば、神は善(キリスト)を造るとともに、

悪(異教徒、競争、戦争)をも造った、

ということなのでしょう。

この二冊の詩集、無垢の歌 と 経験の歌 は後に合本となり、

一冊の本として、無垢と経験の歌 と呼ばれることになるのですが、

これって本のタイトルみれば性善説ですよね。

そして羊というキリスト教に強く関わる動物がタイトルの物語ですから、

キリスト教ありきで進んでいくのは予想出来ます。

冒頭の映画の作品案内の文章を読んでいると、

羊ではない“何か”と対象の存在をおぼろげにしているので、

それが 善のリトルラムなのか、悪のティグレなのか。

そして悪の場合、

羊のような悪、から、山羊の頭部を持つ バフォメット が自然と頭に浮かんできたのです。

ラムの紹介文を見て、こんなことを思いながら映画の視聴を始めたのでした。


涼涼とした猛吹雪の中、

ラジオから流れる内容からクリスマスの夜だと分かります。

小屋の中の羊たちは、一箇所に固まり、一箇所を皆で見つめ、何かに怯えている様子。

馬小屋ならぬ羊小屋で、受胎告知はないもののそれを伺わせるワンシーンから始まります。

完全にマリアの受胎キリストの誕生を思い浮かべることができるシーン。

そして、春の出産シーズンまで時間は流れ、沢山のラム達の誕生の中に、

イングヴァル(夫)マリア(妻 ! )が驚きながら取り上げた、

ある“ラム”の誕生がありました。

顔や姿の描写はなく、夫婦の雰囲気からしか読みとれませんが、

明らかにイレギュラーな赤ちゃん👶が産まれた様子。

子どもに恵まれないと思っていた夫婦に、アダという女の子を授かった過去があったようでしたが、

その産まれたばかりの“ラム”に、

昔亡くなってしまった自分たちの娘の名前、

アダ を与えます。

羊のような“何か”である アダは、

頭部は羊体は人間 の赤ちゃんでした。


今まで決して幸せとはいえなかった2人の前に訪れた アダ は、夫婦に沢山の喜びをもたらします。

アダを溺愛する夫婦。

そんな幸せな3人(?)の前に、3つの刺客(?)が立ちはだかります。

最初の刺客アダの“産みの親の羊”

本物の母羊は、アダが産まれて夫婦に取り上げられてから、わが子アダをいつも探していたのでしょう。

しまいには夫婦の家の中に入り、アダを連れ出してしまう事件まで起きてしまうほどでした。

家の前で子どもを返せとばかりに泣き続ける母羊に悩まされる養母マリアは、

猟銃で母羊を撃ち抜き、牧場の外れに埋めてしまいます。 

家畜の羊とはいっても、アダの親。

憐れみを感じる場面ではありました。

イエスの養父となったナザレのヨセフも聖母マリアも、

イエスのことを自分の子どもと認識しなかったはずなのに、(神の子と認識

物語のマリアは、他人(他羊?)が産んだ子どもを、

亡くしてしまった自分の娘の生まれ変わり、と思い込んでいます。

どちらも神からのギフトだという認識は一緒だけれども。


続く第2の刺客は、夫イングヴァルの弟ペートゥル

放蕩三昧で街を追い出され、地元の牧場に帰ってきた元ミュージシャン。

彼はアダの存在を打ち明けられ、実の子どものように育てようとする夫婦の心配をします。

ペートゥルは、過去のマリアとの肉体関係(不倫)を匂わせるセリフがあったので、

アダのせいで夫婦が円満になってしまうという逆の心配の可能性もありますが、

ペートゥルは普通とは思えない獣人との生活を終わらせるべく、

猟銃(母羊殺しにマリアが使ったもの)を持ち出し、アダを連れ出します。

(この頃になるとアダは直立歩行で歩ける大きさになっています)

マリアがアダの母羊を打つのと同じように、銃身をアダに向けて構えるペートゥル

何も知らずペートゥルを見つめるアダ…

結局、

アダを殺すことなく家に戻っているペートゥル。

ソファーでくっつきあって寝ている二人の姿から、ペートゥルはアダを殺せなかっただけではなく、

アダに愛情を持ち始めているようでした。

ただ、アダとの生活の問題は消えたとしても、

マリアとの不倫の機会を伺っていくことになります。

マリアの夫でありペートゥルの兄である穏やかなイングヴァルは、

過去の不倫も、現在の弟の企みも知らずに物語は進んでいきます。

この方は本質的に無垢なリトルラムに属しているのかも知れません。


ある夜、ハンドボールのテレビ観戦に酒が入り、

夫婦、ペートゥルの大人組は、いつもと違うテンション。

アダはそのテンションに入っていけない様子です。

そんな中、飲み過ぎたイングヴァルは、先にベッドでアダと深い眠りに入ってしまいます。

マリアと二人きりになったペートゥルは、マリアを口説き始めます。

更に、アダの実の母羊を殺したのはマリアだとアダに教える、と脅迫もします。

ペートゥルは、マリアが母羊に手をかけた現場を見ていたようです。

マリアは誘いに応じる振りをして、ペートゥルを鍵の掛けられる部屋へ閉じ込めてしまいます。(何故こういう部屋があるのでしょうか)

事なきを得たマリアは、その後オルガンを弾きながら思案顔。

ペートゥルをどう料理してやるか、考えているところなのでしょうけど、

果たして

マリアが旦那の弟ペートゥルに対して、どんな審判をくだすのか

まだ説明していない 第3の刺客 とは何者なのか

そしてその刺客が、夫婦とアダとの生活のどんな障害となるのか

夫婦とアダの幸せそうな暮らしは続いていくのでしょうか

続きは是非映画を観て、確認していただきたいです。


このような未知の動物や生物との交流の物語は、良い結末を迎えることが少ないでしょう。

宗教がからんでくれば、イレギュラーへの対応は特に問題になってきそうです。

何をもって良い結末、悪い結末と見るのかは意見が多くあるでしょうが、

今回のアダと夫婦の生活が長く続くことが、良いことだとか、正しいということはあり得ないように思います。

映画のワンシーンでアダが鏡を見つめるシーンがあります。

父親母親と思っているイングヴァル、マリアと自分が違う種類の生物である、

という疑いが生じているシーンだと想像出来ますが、

成長と共に様々な摂理を吸収していくアダにとっての幸せは何なのだろう、と考えさせられます。

ウィリアム·ブレイク無垢と経験の歌 ではないですが、

アダ が無垢でいられる間だけの物語と思っています。

そして不倫を疑いもせず、いい人でいられるイングヴァルを無垢なリトルラムと書きましたが、

彼が無垢であるからこそ成り立ってきたマリア、ペートゥルの暴走で、

本来は夫婦関係や兄弟仲は壊れていてもおかしくなかったでしょう。

マリア、ペートゥルは様々な経験で、無垢ではいられなくなってしまった人間だと思うのですが、

マリア、ペートゥルを責めるのではなく、彼らは、世間一般の人間と同じ、ありふれたどこにでもいる存在なのです。

むしろ無垢なリトルラムは絶滅危惧種なのですね、今の時代は。

昔なら、宗教に縛り付けることで、モラルを維持というのは、専制君主の時代では当たり前だったでしょうから。

今の時代は自由過ぎるのかなぁと思ったりしています。

肯定感が低いのも考えものですが、現在は自分本位な個人主義が強過ぎる時代という気がしています。


この映画で描かれるアイスランドの牧場は、

寒寥とした土地(北極圏内かも)、

コミュニティのほとんどない寂しい土地、

夜中も夜にならない白夜でありながら、鬱させられるような薄暗い土地、

として描かれています。

野生馬が猛吹雪の中、行く先に戸惑うような映像が冒頭にあるのですが、

そんな過酷な気象条件がアダの可愛らしさを際立たせます。

アダを夫婦の救世主として描くためのテクニックですよね。

冒頭セリフが極端に少ないのもそうで、息が詰まるような閉塞感を、アダの存在が吹き飛ばしていましたね。

そして白夜の描き方が、我々日本人からみればとても興味深いです。(日本を代表してごめんなさい)

最低でもレースのカーテンで視界を遮断するというのが自分のイメージなのですが、

外は明るいのに寝室にカーテンなどなく、景色が見えているところで夫婦は眠っています。

外から寝室丸見えという状態では案心して眠れない感じがします。

ただ映像のテクニックとして、窓を上手く使うように思ったのですが、

家の中からは外の様子が分かるように窓に外の景色を写しますが、

逆に外からは視界をシャットアウトしたようなくらい中の様子が分からないように撮影しています。

家の中には大切なアダがいるので視界から隠し、

逆に家の中から外の様子を伺うことが出来る城や要塞のイメージです。

隠したい、守りたい存在があることを映像は伝えているように思えました。


あまり知識のないアイスランドという土地柄もあり、

ちゅうは、壮大なゲルマンの神話と結びつけたくなったのですが、

スラブ正教会悪魔の方がしっくりするような感じがしてます。

この合作映画の3国の中の一つ、ポーランドがスラブ系になりますが、

寒村のドラキュラ正教会の悪魔祓いのイメージの方が、この映画にマッチしている感じなのです。

やはり基本は、キリスト教を題材とした物語であって、

無垢な子羊をめぐる経験豊富な大人たちの罪の物語なのかな、と感じました。


今回のブログのタイトルを Who made thee? としたのは、

ウィリアムブレイクの The ramb という詩からとったのはお分かりいただけると思うのですが、 

父親は誰なのかと考えさせられる場面が2点あったので、

そのことを加え who made thee? としました。

そのことを踏まえて、

亡くなった娘アダの父親は ペートゥル

アダの父親は イングヴァル

という悪魔的な解答をしてみるのですが、

可能性がそれほど低くもなく

大人たちのさらなる罪の追加もあり得るのでは、と考えている ちゅう でした。


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