フェルメールの絵画っぽいなぁ、と告知映像を見ていたら、
正に告知でもフェルメールを謳っている「チューリップ·フィーバー」という映画の告知映像でした。
(フェルメールの映画ではありません)
絵画のような映像が頭から離れず、視聴してみたのですが、
これが告知に違いのない素晴らしい映像美でありました。
絵を描く絵心というものが壊滅的にない私、ちゅうでも、
この映像の素晴らしさは感じます。
昔、フィレンツェのウフィッツィ美術館に行ったことがあるのですが、
この絵(彫刻)を見たことがある、というセリフしか出てこないくらい有名な作品ばかりで驚かされました。
それと似た感覚がこの映画には存在しているようです。
実際は、全て映画のオリジナル作品の絵画ばかりなのですが、
フェルメールの絵画の特徴を押さえている絵画を使用しているから、そう感じるのだと思います。
例えば構図として左側に光の入る窓があったり(多いパターン)
真珠の耳飾りの少女 という有名絵画のオマージュ的な絵があったり
フェルメールの絵画ありきで作られた世界観なのです。
このフェルメールの世界観に、
17世紀ネーデルラントのチューリップ·バブル、いわゆるチューリップ狂時代 +α を掛け合わせたのが、
今回ご紹介する「チューリップ·フィーバー」という映画になります。
「チューリップ·フィーバー 肖像画に秘めた愛」 は2017年公開の英米映画。(原題 Turip Fever)
原作はアメリカの人気作家デボラ·モガーによる 「チューリップ熱」というヒット小説で、
モガーはこの映画の脚本も務めています。
🆘ネタバレ注意🆘
チューリップ·バブルに沸く17世紀オランダの港町、アムステルダム、
物語は、一人の美しい女性が投資家に嫁入りするために、聖ウルスラ修道院の孤児院を離れるシーンから始まります。
小さい頃に裸足でやってきた孤児院。
今、馬車でその孤児院に別れを告げる幸運な女性。
「結婚は安全な港よ」と孤児院の院長。
孤児院の女性の未来は、
男に嫁ぐか、男に売るか、神に一生仕えるか、
という選択肢しかない時代に
運良く香辛料の投資家サンツフォールト·コルネリスに見初められた主人公ソフィア。
たとえコルネリスが初老の男性だとしても、
同僚の孤児院の女性たちにとっては、とても羨ましい結婚でありました。
ヒロイン、ソフィアにとっても、コルネリスの人柄もあり、幸せな結婚ではあったのですが、
ただ、一つだけ
3年の結婚生活で、コルネリスが望む子供に恵まれなかったことだけが、
彼女の唯一の不安でした。
彼女が入ったサンツフォールト家には、家政婦マリアがいました。
マリアは未婚の若い女性ですが、
サンツフォールト家に魚を売りに来るハンサムな恋人ウィレムがいます。
そのせいで、サンツフォールト家の食事は魚料理が多いのですが、
マリアは魚屋に恋してるのか、とマリアに愚痴る勘のいいコルネルス。
本人の前でそんな話が出来る良い主従関係がこの家にはあり、
敬虔なコルネルスとは違った、彼の穏やかな性格を見せています。
だからこそ、ソフィアを愛してくれる優しく穏やかな彼のために、
子どもを授かることが出来ないソフィアの苦悩は、どんどん膨れ上がっていくことになります。
ある日、
サンツフォールト家の門を、若い貧乏画家が潜ります。
男はヤン·ファン·ロース。
コルネルスが肖像画を書かせるために雇った将来有望な若者でした。
若い美人な妻を持ったという虚栄心から肖像画を残したいと正直なコルネルス。
ソフィアの美しさを知るのは、夫のコルネルスだけでもなく、
才能を未だ眠らせていた若い画家も気づき始めていました。
彼から不安を感じ取ったソフィアは、画家を変えて欲しいと夫コルネルスに頼みますが、
コルネルスは彼を芸術家としてかっている様子。
仕事に忙しいコルネルスなので、
画家と二人きりで肖像画に取り組む時間が増えていくソフィアですが、
次第に彼女もまんざらでもない様子へ変わっていきます。
(ファン·ロースの方は完全に落ちています)
ある日、画家ファン·ロースは、サンツフォールト家に手紙を書きます。
チューリップを題材としたソフィアの肖像画を描くのに、
自分のアトリエでチューリップを描けるよう、
チューリップを貸して欲しいという内容でした。
コルネルスはチューリップを家政婦のマリアに届けさせようとしましたが、
ちょうどマリアの休みの日だったので、
妻のソフィアにアトリエにチューリップを届けるよう伝えます。
合法的にファン·ロースの元へ行く理由が出来たソフィア。
画家ファン·ロースと同じく、
既にソフィアも恋に落ちてしまっていたようです。
その頃、マリアの恋人ウィレムは、マリアとの結婚のために投資を考えていました。
国中、身分を問わずブームになっていたチューリップへの投資でした。
ウィレムは白のチューリップの球根50球を競り落とし、
栽培先の修道院に書類と実物を確認にいったところ、
50球の内の一球に高額なブレイカーと呼ばれる異種が混じっていました。
「マリア提督」と恋人の名前を冠したそのブレイカーは、
14ギルダーの仕入れ値が、920ギルダーまで跳ね上がり、
ウィレムは一転、大金を手にすることになります。
売りを800ギルダーで見込んでいたウィレムは、
修道院がチューリップの栽培に関わっていることを知り、
差額の120ギルダーを修道院に寄付することにします。
ウィレムは見掛けのハンサムさだけではなく、
一途で、慈悲深い男であることが分かるエピソード。
周りは欲望丸出しで花々や異性に踊らされているのに、
ウィレムはマリアとの生活を第一に考えているようです。
一方、ファン·ロースの思惑通りにアトリエに現れるソフィア。
二人は会った瞬間アトリエで結ばれます。
高齢なコルネルスとは違い、
美貌、若さ、男性能力に優るファン·ロースの虜に落ちてしまったソフィアは、
欲望のままの禁断の不倫に溺れていくことになります。
マリアのコートを拝借してファン·ロースのアトリエに向かうソフィア。(変装)
ウィレムは、コートを這おうソフィアをマリアだと勘違いし、
後をつけていきます。
行き先はもちろんファン·ロースが待つアトリエ。
ウィレムが見つめるアトリエの窓に映るのは、
不鮮明ながらも男と女のその現場。
画家青年とマリアの浮気現場を目撃したと勘違いしたウィレムは、
その夜、飲み屋で泥酔してしまいます。
ウィレムの大金目当ての娼婦に金を盗られ、取り戻そうとするも反撃、暴行されてしまいます。
婚約者と大金を同時に失ったウィレムは、失意の中、アフリカへ向かう海軍に入隊、
マリアの前から姿を消してしまいます。
失意 はウィレムに捨てられてしまったマリアのセリフでもあります。
突然いなくなってしまったウィレムの子どもを宿したことも判り、
子どものためにも、サンツフォールト家での仕事を失うわけにはいかなくなってしまいます。
そんな思いから、画家と浮気をしているソフィアと組もうと考えます。
浮気はコルネルスに黙っているので、マリア(と産まれてきた子供)の仕事を続けられるようコルネルスを説得して欲しい、と。
つまり、
仕事を失うことがあれば、ソフィアの浮気をバラすよ、と。
ソフィアとマリアは必然的な運命共同体。
どちらもサンツフォールトの家を失うわけにはいかないのです。
ここでソフィアから悪魔的解決策が話されます。
それは 託卵 。
ウィレムとマリアの子どもを、ソフィアが産んだように偽装するというものでした。
更にソフィアは出産と引き換えに死を迎え(偽装)、コルネルスの元から離れ、
ファン·ロースと違う街で人生のやり直しをする、
という悪魔のような考えを、
ソフィアとマリアは選択することなってしまいます。
果たして、このトリッキーな託卵が2人の思惑通り上手くいくのか?
ソフィアの偽装出産、偽装死に、コルネルスは騙されてしまうのか、
マリアはソフィアの偽装死後のサンツフォールト家で、嘘を押し通していけるのか、
マリアと失踪したウィレムがふたたび出会う世界線はないのか、
あるのであれば、一転窮地と化すこの状況をどう乗り越えるのか?
そして、ソフィアは生まれ変わって、ファン·ロースと暮していけるのか?
ソフィアは良心の呵責に耐えられるのか?
見どころ沢山のこの続きは、
是非映画を観て確認いただきたいです。
この映画の面白さは、最初に書いた映像の美しさとともに、
現代人気小説家の書くドラマチックな展開にあると思います。
恩ある人物を、そこまで憎んでいるとは思えない人物を、
自分の物欲愛欲のために、
結果的に傷つけ、貶めるという行為を犯してしまう
個人主義がどんどん強くなっている現代的なシナリオという感じがします。
17世紀のオランダという設定ですが、事件性は現代的なお話。
そして、エンタメ性を高めるために、
最良のパーツを寄せ集める良いとこ取りの豪華なシナリオ、
目が離せなくなるキャッチーな展開の映画だと思います。
チューリップ·バブル、フェルメールの世界観、不倫·托卵、の正に三位一体のエンタメ映画ですね。
そしてチューリップ·バブルという歴史上の出来事についても触れなければなりません。
チューリップバブルの盛衰や恋模様の浮き沈みをとても魅力的に描いた作品です。
主要登場人物のほとんどが金欲、愛欲に弄ばれていきます。
具体的には、
金、投資、名声、チューリップ、絵画、男、女といったモノに
惹かれ、欲して、壊して、失うといったことを、皆同じように繰り返し行動しているのが面白いです。
チューリップ·バブルや恋愛が大きければ大きいほど、失うものが大きいという、
人生の教訓みたいな話として面白く楽しめました。
みんな隣に咲くきれいな花を欲しがるけれども、
欲をかきすぎると失ってしまうので、
ブームに流されず、ほどほどにしないといけないのかも知れません。
特に人生半分を超えこの映画を観れば、少しでも謙虚に生きてみたくなってくる ちょっと弱気な ちゅうでした。
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